特攻隊員の白い飛行マフラー
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舞鶴の雑学


■ 特攻隊員の飛行マフラー ■
■特攻隊員が首に巻く白い飛行マフラーは全部が舞鶴製

 特攻隊の写真や映像を見れば、首に白いマフラーをしている隊員の姿を多く見かけます。
これは突撃して死んで行く者の白装束の意味もあるといわれています。

  この白装束の意味も含んだ特攻隊の搭乗員の方たちが出撃の時に首に巻く白い飛行マフラーは、すべてが舞鶴で作られたものだったと云うお話。


 戦時中の学徒勤労動員というものが舞鶴市でもありました。

  当時、市内にあった京都府立舞鶴第一中学校、京都府立舞鶴第二中学校、京都府立舞鶴第一高等女学校、京都府立舞鶴第二高等女学校、舞鶴市立中舞鶴高女学校では、それぞれが学校報国隊を結成して、生徒は舞鶴海軍工廠、第三火薬廠、海軍軍需部、海軍施設部等に学徒動員として出勤しました。
それから少し後に市内の国民学校高等科児童も昭和十九年十月から海軍工廠や郵便局、国鉄等に学徒動員として出勤する事になります。

  その中で舞鶴市立中舞鶴高女学校は海軍軍需部被服裁縫工場が疎開してきた為に、舞鶴市立中舞鶴高女学校そのものが軍需工場になってしまいました。

 舞鶴市立中舞鶴高女学校について、このような記録が残ってます。
 軍需部被服裁縫工場が、本校に疎開する事になり、軍需部からはシンガーミシン百台が持ちこまれ、学校のミシン二十五台と共にフル運転された。
予科練の運動シャツとパンツの縫製が主で後にはマフラー、布団なども作った。
材料は山と積まれ、空いた教室は材料と製品の倉庫となった。

 戦局癒々苛烈となった十九年の秋頃、講堂に純白の羽二重が山のように持ち込まれた。
大巾の羽二重をマフラーに仕上げた。
これが特攻隊用のマフラーと聞いた時、生徒の感激は絶頂に達した。

特攻隊出撃最後の記念写真には、皆、白いマフラーをしているでしょう。
あれは全部中舞鶴高女学校の作ったものです。

数量は三万枚、軍は三万人の特攻隊を予想し、肉弾とするつもりであったらしいです。

当時の中舞鶴高女学校 校長の記録

出撃前の特攻隊員
海軍軍需部被服裁縫工場として舞鶴市立中舞鶴高女学校の女生徒達が作った白い飛行マフラーを首に巻く出撃前の特攻隊員
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