金閣寺放火事件の経緯と動機とは
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舞鶴の雑学


■ 金閣寺放火事件 ■
■金閣寺放火事件

◇ 経緯 ◇

  昭和25年7月2日午前3時頃、京都鹿苑寺(通称・金閣寺)の国宝・金閣(舎利殿)が放火により全焼。
この放火で応永4年(1397年)足利義満が建立した3層構造の美しい舎利殿とともに足利義満の木像、運慶作の観音菩薩像、阿弥陀如来像や経巻、仏教本など貴重な国宝が全て焼失し灰となってしまいました。


  消防隊員が第一報で駆けつけた時には、既に舎利殿から猛列な炎が噴出して手のつけようが無く全焼してしまいました。
早朝、鎮火した現場に蚊帳のつり手や布団生地があったことから不審を抱いた消防隊員が西陣署の警察官に連絡し共同調査を実施。
警察が金閣寺の住職・村上慈海氏やその徒弟・事務方から事情聴取したところ、徒弟の1人で林承賢(当時21歳)が居ないことが判明し、 庫裡にある林承賢の部屋を調べたところ蚊帳や布団などが無かったことなどから林承賢が放火したと断定して行方を捜索を開始。

警察と消防団が付近一帯を捜索していた同日午後4時頃、金閣寺裏にある左大文字山でうずくまっていた林承賢を発見し、放火容疑で逮捕しました。
林承賢は薬物を飲み刃物で腹を刺して自殺を図っていましたが刺し傷は致命傷に至らず、薬物も病院で胃洗浄した結果、命に別状はありませんでした。
逮捕当初、林承賢は「世間を騒がせたかった」、「社会への復讐のため」との動機を自供して犯行を素直に認めました。

◇ 動機 ◇
  林承賢は昭和4年3月19日、京都府舞鶴市成生の貧寺・西徳寺の住職・林道源の長男として出まれましたが、林承賢は生まれつきの吃音で、このことが死ぬまでトラウマとなっていました。
また父親の道源氏は結核を患っており住職としての役務も満足に勤められず寝たっきりの状態だったということです。
当時の成生の檀家は僅かに22戸で経済的にも困窮していた道源氏は43歳で死ぬ直前、伝手を頼りに金閣寺住職の村上慈海氏へ子供の承賢を弟子にして欲しいとの手紙を出し、これが受け入れられて昭和18年3月18日、金閣寺にて得度式を行い承賢は正式に村上慈海氏の弟子となります。

成生の実家に一時病気療養のため戻っていた承賢は、終戦間もなく再び金閣寺に戻って、村上慈海氏の理解を得て大谷大学へ進学します。
犯行当時は大学3年に在学していましたが、入学当時から比較して成績は下がる一方で登校もしなくなっている状況でした。

承賢は放火事件の数年前から金閣寺に疑問を抱くようになります。
臨済宗相国寺派の禅寺である金閣寺の実体は、観光客からの拝観料による潤沢な寺ですが、その一方では金銭欲を持たず自身を無にする禅寺修行が行われず拝金主義であったこと。
得度を授かった徒弟より観光客の管理、運営に携わる事務方が幅を利かせている上下関係に承賢は嫌気をさしていました。
そして承賢自身も父親と同じ結核に怯え悩み、息子が金閣寺の住職に出世することだけを唯一の楽しみとしていた母親の過度な期待等がプレッシャーとなり、様々なことが承賢を取り巻いていた事からの犯行ではないかと言う事です。

昭和25年12月28日京都地裁は承賢に懲役7年を言い渡しました。
昭和30年10月30日刑期満了で京都刑務所を出所。
昭和31年 3月 7日午前11時10分に結核と重度の精神障害により、京都府立洛南病院に入院中に死亡。

その後、作家の三島由紀夫は「自分の吃音や不幸な生い立ちに対して金閣における美の憧れと反感を抱いて放火した」と承賢の心を読み、この事件をモデルに「金閣寺」を発表。
水上勉は「寺のあり方、仏教のあり方に対する矛盾により美の象徴である金閣を放火した」と承賢の心を読み、「金閣炎上」という小説を書きました。

真実は今でも判らないまま、承賢の放火後に汽車から飛び降り自殺した母親と共に舞鶴市安岡の墓地に並んで眠っています。

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