丹波恵比須神社 (えべっさん)
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舞鶴の雑学


■ 丹波恵比須神社 ■
■丹波恵比須神社

 西舞鶴の商店街の近くに「ゑべっさん」があります。

 明治18年に舞鶴海産物合資会社が旧舞鶴町在住の魚を扱う人たちによって設立されましたが、その時に京都の建仁寺から恵比須神社の分霊を舞鶴へ受けて魚屋北浜にお祀りしたのが起こりです。

 その後、商売繁盛の神様としての信仰が広がったために、現在の丹波町に明治32年に移りました。

 本来、『ゑびす様』がおいでになる9月20日(現在の10月20日)にお祀りをするのですが、西舞鶴の商店街が『ゑびす祭り』を開催するからでしょうか?
いつの日からか、11月下旬に『ゑびす神社大祭』が行われるようになりました。

丹波恵比須神社 丹波恵比須神社
丹波恵比須神社 丹波恵比須神社
 
ゑびす神社大祭の時の丹波恵比須神社

福娘の皆さん 福娘を乗せた籠
えびす娘の皆さん えびす娘籠道中
※えびす娘の画像は過去の物です。
恵比須神社大祭と商店街の年に一度の大売り出しで賑わいます。


以下「丹波恵比須神社」配布資料から転載です。


丹波のえべっさん縁起 格式高いお社

◆「ゑべっさん」てどなたなんでしょう???

 丹波恵比須神社が、どうしてこの丹波町内にいらっしゃるのかということについては、昭和五十九年十一月に丹波町に長年お住まいの岩崎恵次さんが発行された【恵比須神社の歴史】と言う冊子に記されていますので、ここでは『ゑべっさん縁起』の一部についてお話ししてみたいと思います。

 八幡さんとか、お稲荷さんとか言われるお社は、全国津々浦々、どこへ行ってもお祀りされています。
 ところが、私たちがたいへん身近に感じ、親しい気持ちで「ゑべっさん」とか「おいべっさん」とかいってお祀りしている「恵比須神社」は、関西、それも京阪地域に限ってお祀りされているお社なのです。

 「蛭子」(ヒルコ)とかいて「「ゑびす」とも読まれていたことがありますが、実は、この「蛭子」というのは、昔々の神代の時代、イザナギ、イザナミの神様の間に産まれた最初のお子様でした。
 しかし、このお子さまは、足も弱く、人のからだになっていなかったため、葦でつくった船に入れられて流されてしまいました。
 また別の説では、「ゑびすの神」というのは、八重事代主命という神様のこととも言われています。じつは、この八重事代主命も、国譲りのもめ事のため海に沈んでしまわれたと伝えられています。
 「蛭子」の神様にしても「八重事代主命」の神様にしても、流されたり、沈められたりした、水に因縁のある不幸せな神様といえそうです。しかし、日本古代の信仰によると、水に亡くなられた神様は、喜んで拾われ、水難を防いでくださったり、色々な難儀から護ってくださるたいへんご利益のある神様として崇められておりました。このため、いつからか「蛭子」の神様も、「八重事代主命」の神様も、伝説は違うのですが、お一人の神様としてお祀りするようになったのです。室町時代になると、この神様は、あの、因幡の白兎で有名な「大黒様」とともに、福の神「恵比須」としてますます庶民から親しまれるようになりました。

◆「ゑべっさん」いうてもちょと違う!

 現在、ゑびす神社の総本社は、西宮の『恵美寿神社』で、あの「十日ゑびす」で、賑わう大阪今宮の『戎神社』は、その分霊になっています。
 京都にも『恵美須神社』が、ありますが、同じ「ゑべっさん」でも、大阪や西宮の『恵美須神社』とは、少し系統の違う『恵美須神社』のようです。

 京都の小松町というところに、建仁寺という立派なお寺がありますが、昔その建仁寺の中に『恵比須の宮』が、神仏一体となってお祀りされておりました。
 というのも、建仁寺をお開きになったのは、岡山吉備神社神官の出でありながら、僧になられた『栄西』と言うえらいお坊さんでした。
 仏様も神様も大切になされる心厚いお坊さんだったので、お寺の中に、『恵比須の宮』を祀られたのです。
 ところが、のちになって、紙と仏とは別々にお祀りするという【神仏分離】の決まりに従い、建仁寺の真西に移し、独立させられたのが、現在の京都『恵美寿神社』なのです。
 今でも、五月の京都『恵美須神社』の例祭には、建仁寺の僧がお参りして、『栄西』の遺徳を忍び、六月の建仁寺の開山忌には、『恵美須神社』のほうから、雅楽の奉納が、行われるという、神様と仏様との仲の良い交流が続けられてるのです。
 いずれにせよ、栄西禅師が、ゑびすの神を敬愛されていなかったら、この京都の「恵美須神社」はおそらく存在しなかったと思います。

 こんなお話も伝わっています。
 その昔、栄西禅師が、唐の国に渡って、更に徳をつむための勉強をしようとされた時のことです。
 俄の嵐に襲われ、船中の人々は生きた心地もなく慌てふためいていておりましたが、禅師は少しも騒がず、海上に向かって一心に拝んでおられました。
 その時何処ともなく『ゑびす』のご神体現われて船の舳先に立たれた『ゑびす』のお姿を写しとどめ、帰朝されたのち、栄西禅師ご自身が御神像を刻み、『建仁寺』の守り神として祀られたのです。
 毎年九月二十日は、『ゑびす神』が「建仁寺」にお越しになる日で、この日のお祀りが、「建仁寺ゑびす」といわれ、お寺で『神』を祀るという、最も大切な神事なのです。

◆「丹波恵比須神社」は、『建仁寺』が故郷

  実は、私達の町内の【丹波恵比須神社】は、今から百年以上も前、「建仁寺】から、独立された京都「『恵須寿神社』の“みたま”を分けていただいた『分社』になっているのです。
 ですから、九月二十日(現在の十月二十日)は、『ゑびす様』が、この丹波にもおいでになる日なのです。
 しかし、いつからか、大売り出しに商店街が賑わいはじめる、十一月二十日に、このお祀りをするようになりました。
 それにしても、十月二十日に丹波にお着きなった「ゑびす様」は、十一月二十日まで、どこにお泊りなのかちょっと気になるところです。

 なお、「十日ゑびす」というのは、「ゑびす様」が、お帰りなる日で、境内で焚く篝火は、「ゑびす様」をお送りする丹波町衆の、名残を惜しむ御神火なのです。
 また、「ゑびす」という字は、「恵美須」「恵比寿」「戎」「胡」「蛭子」など、いろいろな書き方がありますが、「丹波恵比寿神社」の「恵比須」というのは、室町時代に福の神として崇められるようになられたときに使われた書き方と言われています。

◆「神仏」両方に護られる丹波町

 とにかく、私達は、今まで、神様と仏様は、別々の信仰の対象のように考えていましたが、これからは、『栄西禅師』に学んで、神仏を大切にお祀りしなければならないと思います。
 人それぞれの思いや信仰がありますから、一概には、言えませんが、丹波町を象徴する守り神であることには違いありません。
 しかも『栄西禅師』のお陰で、神様にも仏様にも護られている有り難い町内と言えます。

◆小さいながら格調ある格式高いお社

 他のお社から比べると、「丹波恵比須神社」は、小さなお社かも知れませんが、その縁起を考えますと、京都「恵比須神社」への『分社』として、大変立派な格式高いお社といえましょう。
 私達は、ここでもう一度、「丹波恵比寿神社」への認識を新たにし、同じ町内に暮らすものをして、大切に護持しなければならないと思います。
転載終わり


※舞鶴には、『西宮のゑびす様は舞鶴市の御出身』だとの伝説もあります。

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