大江選手(大江季雄)と友情のメダル
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舞鶴の雑学


■ 大江季雄と友情のメダル ■
■大江季雄(おおえ すえお)

大江季雄 1914年8月2日生
・舞鶴市(東舞鶴)出身
旧制舞鶴中学校(現:府立西舞鶴高)出身
・慶應義塾大学出身

・ベルリンオリンピックメダリスト
・元棒高跳び日本記録保持者。

 大江季雄は大正3年(1914年)8月2日、東舞鶴の新舞鶴小学校の校医でもあった白糸浜の開業医(大江病院)の次男として生まれました。


■友情のメダル
  大江選手は昭和11年に開催された第11回ベルリンオリンピックの棒高跳びに出場し、決勝に残りました。

  決勝戦を争うのは大江選手と西田修平選手とアメリカのメドウス選手らの5人。
5時間にわたる激闘の末にアメリカのメドウス選手が4m35cmを跳んで優勝を確定し、4m25cmを跳んでいた大江・西田の両選手もメダルが確定されました。
夜の9時を過ぎて2位を決める順位決定戦の際、大江・西田選手両名は競技を打ち切るように審判に要請。

競技打ち切りの要請をしたのは…
「同じ日本人同士が争うべきではない。」との理由でした。
それは二人とも銀メダルになると思っての要請でした。

しかし、審判の判断は
4m25cmを1回目で跳んだ西田を2位、2回目で跳んだ大江を3位

表彰式で表彰台に登る際、これからの活躍を願うという想いから2位の西田選手は大江選手を2位の表彰台に登るように、そっと送り出します。

こうして大江選手は胸に銅メダルを光らせて2位の表彰台に立って表彰されました。

オリンピックが終了し帰国した2人は、互いの健闘を讚え合い銀と銅のメダルを繋ぎ合わせました。

それが友情のメダルです。
大江季雄氏の友情のメダルと表彰台の3選手

  ベルリンオリンピックの翌年2月に開催された大会では、西田選手が願ったように大江選手はアメリカのメドウス選手と戦って勝利し雪辱を果たしました。
また、同年9月には4m35cmを跳び、その後21年間の永い間、日本記録保持者として大江季雄の名を残しました。

  その後、昭和16年の第二次世界大戦の最中、フィリピンのルソン島にて敵の銃弾を浴び戦死。
1941年12月24日に27歳の生涯を閉じました。


資料
・大江季雄氏の友情のメダルは秩父宮記念スポーツ博物館。
 ※舞鶴市市政記念館にある友情のメダルはレプリカ。
・大江選手使用の竹製ポールは舞鶴市政記念館大江選手コーナー。
 ※白絲濱神社の氏子という事から以前は同神社に奉納されていました。
・大江季雄氏の母校である京都府立西舞鶴高等学校に銅像。
・西田修平氏の友情のメダルは早稲田大学大学史資料センター。

◇西田修平氏
  戦後、日本陸上競技連盟理事長、日本オリンピック委員会委員等を努め、陸上競技とスポーツの発展に尽くし、 その功績を記念して1989年に国際オリンピック委員会からオリンピック・オーダー銀章が授与されました。
1997年4月13日に87歳で亡くなられました。
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