舞鶴の山城
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舞鶴の雑学


■ 舞鶴の山城(やまじろ) ■
  小さい時、舞鶴の地図を広げて見ていたら、東舞鶴の祖母谷通りの奥にある山の頂上付近に〔矢野城城跡〕という文字を発見し、一度行ってみたいと思ってました。また、市役所近くの小高い山や西舞鶴の日星高校の裏手の体育館近くにも城跡があったという事を知り、「もしかしたら舞鶴市内の城跡は10を超えるくらいあるのでは?」と想像を膨らましていました。

この度、舞鶴市内の山城に関する文献を手に入れましたので、このようなページを作ることが出来ましたが、機会があれば行ってみたいと思っています。



  舞鶴の城といえば田辺城が頭の中に浮かびますが、田辺城は平地での居住施設として大きくなった平城です。
他に山頂や丘などに臨時の防御施設や戦闘の際の陣地を確保する為に設けられた山城が舞鶴にも数多くありました。


■舞鶴の山城(やまじろ)

現在の舞鶴市内における中世の城は、南北朝時代の動乱のもとで

・ 建武四年(1337年) 「岡田庄荒針城」 (吉川家文書)
・ 観応元年(1350年) 「田辺城」 (西大寺文書)
・ 延文二年(1357年) 「田辺竹辺城」 (片山家文書)

上記の文献に攻防戦が展開された舞鶴の山城の存在が証明されています。

舞鶴市にある山城の一覧です
東舞鶴地域にある山城の一覧ページへ
西舞鶴地域にある山城の一覧ページへ
加  佐地域にある山城の一覧ページへ

しかし、これらの舞鶴の山城については、信憑性の高い史料が残っていない為に、いつ誰が構築したものか、成立年代はいつなのか、城主は誰だったのかが確証することが出来ないとの事です。


■山城(やまじろ)とは

  中世の城には、平地における居住施設としての館が発達し、大規模化して平城となるものと、山頂や山稜に逆茂木(鹿砦)・堀などを持った臨時の防御施設が、産地を削平した曲輪に設営され陣地化し山城となるものがありました。
両城の成立時期は14世紀後半の南北朝時代だと推定されます。
平城では大和の戒重城(開住城)・河合城が…
山城では河内の千早城が資料的に見た場合、一番早い時期のものだと言われてます。

  山城は、南北朝時代には広域な戦略上の必要から、高く不便な山地に構えていましたが、室町時代には国人たちの所領支配の拠点ともなった事から、その多くは高さ百メートル台までの低い山地で、支配する村落との連絡に便利な場所を選び築かれました。

  山城には軍兵の宿泊建物・倉庫の敷地や戦闘の足場・陣地などを確保する為に、山頂・山稜の所々を平場に整えた曲輪、これに付属した柵・塀・矢倉・木戸など、曲輪を防衛するための堀(空堀)・土塁などが設けられましたが、これは戦闘に対してすぐに対処できるよう立てこもる為の軍事施設であって、その山すそには城主がふだん居住する館や軍兵が射撃・馬術を訓練する的場・馬場などが置かれていました。しかし、戦国時代に至ると山城は度重なる争乱により多数の軍兵が長期にわたって駐留するようになって、山城は軍事的な目的のみではなく、居住機能も持った施設に変移していきました。

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