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「舞鶴港に引揚げて来た犬」
昭和20年8月15日、天皇陛下の終戦詔書により第二次世界大戦は幕を閉じました。
戦地の日本人は国際法に基づいて、速やかに日本に帰れることを考えていましたが、ソ連(現在のロシア)軍は、戦争が終わって武器を捨てた日本軍人や満州国在住の日本人達をソ連領内の各地に連れて行き、最低で最悪の環境の中での苦しい労働をさせました。
その為に、栄養失調になって倒れたり、発疹チフスが流行して多くの日本人が倒れて死んで行きました。
その数は、6万人とも11万3千人とも言われています。
その人達は、皆同じように日本の生まれ育った故郷を思い出しながら、奥さんや子供両親の名前を呼びながら亡くなっていったそうです。
中には、「腹一杯食いたいなあ」と言って亡くなっていった人も居たそうです。
そういった状況の中、昭和25年末迄に抑留者の多くの人達は日本に帰る事を許され日本の地を踏む事が出来ましたが、戦争の犯罪人としての名目で強制的に残された人達は今までと同じようにソ連(現在のロシア)軍に強制的に働かせられました。
昭和28年頃からは、スイスのジュネーブ国際赤十字から小包が、昭和29年からは故郷からのハガキ(3ヶ月に一度)や、小包が送られるようになったそうです。
おかげで、ピリピリとした抑留者の人たちの気持ちも、すこし和やかな雰囲気になり、それまでの食事でガリガリに痩せた栄養失調の体も、日本から送られた小包の中の食料のおかげで少しづつ体力も回復していきました。
そんな時、抑留者の誰かが作業場に捨てられていた黒い毛をした仔犬を、ソ連軍の監視兵に見つからないように収容所に連れて帰って来ました。
その仔犬を誰が飼うんだという事は無く、収容所の日本人たちは自分が食べる分の食料を与えて、すぐに人気者になりました。
「日本からの小包で食料を送ってもらう前だったら、皆が飢えていた状態だったから、もしかしたら仔犬は誰かに殺されて食べられてたかもしれないぞ。良かったなぁ。」と、仔犬に言って収容所の皆で、仲間が増えた事に喜びました。
この仔犬は黒い毛で熊に似ているので「クマ」と名付けられました。
「クマ」と呼ぶと、尻尾を振りながら駆けてきて飛びついて愛嬌を振りまくものですから、皆から可愛がられ、また抑留者の心もを慰めてくれました。
その仔犬も1年も飼うと成犬になりますから、クマは中型位の犬に育ちました。
しかし、困ったことに、このクマは日本人には愛嬌を振りまきますが、ソ連兵や将校が収容所の中に入ると大きな声で吠えて敵意をむき出して向かっていきます。
ソ連兵も度重なると怒って拳銃を出して、「クマを殺す!」と、ソ連兵が怒鳴ります。
クマが殺されては困るので、ソ連兵の見回りの時間にはクマが吠えない様にみんなでクマを匿いました。
そのうち、ソ連兵も諦めたか拳銃を抜かなくなっていきました。
その後は何事も無く平和でした。
どうも収容所の中では、クマはソ連人より日本人と一緒の方が好きらしいようでした。
昭和31年10月、鳩山首相が不自由な体でありながら、車椅子に乗ってソ連を訪れて、日ソ協同宣言を交わし、最後まで抑留されていた1,025人が最後の引揚者として帰国出来る事になりました。
しかし、抑留者を慰めてくれた犬のクマを一緒に日本に連れて帰るという事は、検疫とか種々の手続きで不可能だという結論になってしまいました。
残念ですが、クマが生まれたソ連の地に残して帰るという以外に抑留者には対策がありません。クマを可愛がっていた人たちは、そう思って別れを惜しみました。
12月21日夕方にソ連のハバロフスク駅で列車に乗せられて、22日の朝には出発して、南に向かい、翌日の23日にはナトホカ港に着きました。
その岸壁には、懐かしい日本の国旗の日の丸が掲げられた引揚船の興安丸が接岸しています。その光景を見た抑留者の人たちは、11年もの長い間苦しい労働させられて来たけれど、これでやっと日本に帰れる事が出来るんだと実感し、多くの人々が涙を流しました。
岸壁から興安丸までは、急いで作ったような粗末な桟橋でしたが、その桟橋のところで日本とソ連の係官が立ち会って、順に一人づつ名前を呼ばれて本人の確認をしてから無事に日本側に引き渡されてから、桟橋を上がって船に乗り込みます。
その甲板上には看護婦さんが数人待っていて、順番に登ってくる帰国者の手を取って「長い間ご苦労様でした」と眼を潤ませながら、甲板へ引き入れてくれます。
看護婦さん達に言葉を返そうとしても、感激の涙に詰まってしまって何も言う事が出来ず、ただ深々と頭を下げるのみという光景が続いていました。
24日の朝、ソ連の砕氷船が港内に張り詰めた氷を砕いて、興安丸を外港へ出す為に曳船準備が始まりました。
興安丸がゆっくりと岸壁を離れます。
皆甲板に上がって、11年5ヶ月というの長い間の苦しい思い出を、離れていくナホトカの山々を見つめて、抑留中に亡くなってしまった友に心の中で別れを念じてたその時です、「クマが海に飛び込んで船を追ってくるぞ」と叫ぶ声が聞こえました。
皆がそっちの舷側によって見ると、収容所で別れた「クマ」が興安丸が離れた岸壁から冷たい海に飛び込んだらしく、一生懸命に船に向かって泳いでくる姿がありました。
このままでは溺れ死ぬと思い、「クマ、引き返せ・クマ引き返せ」と口々に呼びかけるが、クマは尻尾を振りながら、今船が掻き分けた砕氷の凸凹した上を右に左にと渡りながら、時には滑って海に落ち、這い上がっては身震いしながら追いかけてきます。
零下40度の世界ですから、毛に凍りついた氷は落ちませんし、尻尾にまで凍りついた氷がくっついて重くなっていますから、尻尾の振り方も元気がなくなってきます。
クマは、「一緒に日本に連れて行ってくれ。」とお願いするように時々船を見上げます。
必死に追いかけて来ますが船との距離はだんだんと開いてしまいます。それでもクマはあきらめずに泳いで船を追いかけてきます。
でも、日本に帰るために船に乗っている人々には、どうする事も出来ません。
その時です、興安丸の速度が徐々に落ちていき、停止しました。
クマは急いで興安丸に近寄って甲板の帰国者を見上げて全身を振りますが、簡単には体や尻尾にくっついている凍りついた氷は落ちません。
収容所で一緒だった日本人と別れたくないという一念でしょう。
早く助けてと叫んでいるようです。。
興安丸の玉置船長のご厚意により船は停止し、甲板からスルスルと縄梯子が降ろされ、船員さんが氷上の下りて、クマを抱いて船に上げられました。
興安丸船内にクマが無事に救助されたことを喜ぶ歓声が上がり、看護婦さん達も眼に涙して喜んでくれています。
帰国者の心にほのぼのとして温かさが湧いた一瞬でした。
その後、長期抑留者会の機関紙最新号に日本に上陸後のクマの消息が報告されました。
それによると、帰国者の中には、クマを帰国列車に乗せた者はいなかったそうです。
クマは、ハバロフスクからナホトカ港までの1,000キロの距離を22日から24日朝まで、零下40度の寒さに耐えながら、昼夜を問わず、日本人の臭いを求めて走り続けたことになります。港に着いてから何処かに隠れていて、興安丸が岸壁を離れるのを見て海に飛び込んで、日本人の後を追ったのが事実のようです。クマは、共産主義を嫌って命がけの亡命をしたという事でしょう。
クマは幸い、玉置船長の計らいで救助されました。
興安丸が舞鶴港に着いたとき、玉置船長がクマの身元を引き受けて検疫を受けられました。玉置船長は、一匹のシベリア犬クマが日本人を慰めてくれた忠犬であり、日本人を慕って命がけで氷の海に飛び込んで後を追う行動のいじらしさと純粋さに心打たれるところがあると自分から切望して、クマを引き取って大切に飼育されたとのことでした。
それから40年余、玉置船長は他界されました。恐らく「クマ」もこの世にはいない。
引揚話など今の時代には、耳を傾けてくれる人も少なくなっています。
一匹のシベリア犬クマが、あの殺伐とした収容所に笑いを与えてくれた「クマ」。
あの酷寒の海に飛び込んで、命をかけて飼い主の日本人を追った「クマ」。
その「クマ」を停船して救い、日本に連れて帰り、飼育してくれた玉置船長。
クマが船上に姿を現したとき涙を浮かべて喜んでくれた看護婦さん達。
クマは幸せな犬であったと思う。その幸せを拓いたのはクマ自身である。
忠犬ハチ公の物語もあるが、戦後に帰国した我々1,025人にとっては、ハチ公に優る忠犬「クマ」であり、忘れられない思い出である。日本に眠る「クマ」の冥福を祈る
※平成十年度 ふれあい大学文集十三号「せせらぎ」より抜粋
「抑留者とシベリア犬クマとの哀歌」
※クマは日本に来てから子供が出来ました。
クマの子孫は元気に生きているそうです。 (^-^)
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