一本松地蔵 (泣き地蔵)
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舞鶴の伝説


■ 一本松地蔵 (泣き地蔵) ■
■一本松地蔵 (泣き地蔵) 伊佐津

今から390年程前、伊佐津川の瀬替が行われました。
当時、眞倉川・池内川は現在の西舞鶴の街の中心に向かって流れ、そのあたりは一面が湿地帯のために住民は生活に困っておりました。
この状況を解消する為に、当時の田辺城藩主であった京極高知候は、堤防を築いて眞倉川・池内川の両川を一本にまとめ、東側の山麓を流れるようにしました。

両川の合流点では西に向かって流れる池内川を堰き止める為に九基の巨大な石枠を基礎にしたが、この瀬替は大規模だったために相当困難な工事でした。

当時の瀬替の責任者である瀬替奉行の山口長左ヱ門には、それはそれは美しい娘がいたそうです。
その娘は器量も良く、少しでも早く工事が進むようにと人夫達にも笑顔と気配りを重ね、人夫達の間でたいへん評判の美しい娘でした。

しかし、困難な工事の為に遅れている事が気に入らない役人が、工事が遅れているのは奉行の娘が原因であるとの理由で、ある夜に密かに娘を切り捨ててしまいました。
人夫たちは勿論、村人達も相当に哀しみ、その場所にお地蔵様を建てて松を植えて弔いました。

以来、このお地蔵様を一本松地蔵と呼ぶようになり、大切にされています。

このお地蔵様は、霊験あらたかにて願い事が叶うと言われ、特に赤ちゃんの夜泣きを封じるご利益がある事から、別名を「泣き地蔵」とも呼ばれています。


山口長左ヱ門の娘の犠牲のもとに完成された伊佐津川の堤防ですが、享保二十年と明治二十九年に決壊しました。
明治二十九年の堤防決壊の際の洪水では、伊佐津二十四戸が流出し多くの人命も失われました。
後に川北藤右ヱ門家より犠牲者の冥福と往来安全を願い、別に大きな地蔵尊が建立されました。

尊い犠牲のもとに出来た瀬替が、今日の舞鶴の発展の礎となったと言うことです。



一本松地蔵 (泣き地蔵)
一本松地蔵 (泣き地蔵)
毎年 4月5日には和尚さんの読経による祭典法要が行われます


後に川北藤右ヱ門家より建立された大きな地蔵尊
後に川北藤右ヱ門家より建立された大きな地蔵尊



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