年月日 |
記 録 |
1927.2.12 |
オランダ・アムステルダム・ネーデルランド造船所で貨客船として建造
船名:オプテンノール号 6076トン |
1927.11.9 |
オランダ王立郵船会社所有
バタビア−シンガポール−バンコク−サイゴン−マニラ−モルッカ−バリ−バタビア間に豪華客船として就航。 |
1941.12.8 |
オランダ海軍に徴用 |
1942.2.19 |
スラバヤ・オランダ海軍施設で、病院船に生まれ変わる
(同年2月4日オランダ赤十字社と駐日スェーデン公使通じ日本政府に病院船として通告される) |
1942.2.26 |
日本海軍駆逐艦「天津風」に拿捕。
1907 年オランダ・ハーグで調印、1912年日本公布、「ジェネヴァ条約ノ原則ヲ海戦ニ応用スル条約」で臨検、捜索で戦争物資、兵員を積載していない限り拿捕できないが、オプテンノール号は、これらの物資、兵員を積載していなかった。 |
1942.12.5 |
日本へ回航され、横浜港に到着 |
1943.3.31 |
三菱重工横浜造船所で改造後、「天応丸」と改名 |
1944.10 |
横須賀海軍工廠で改造。
1本煙突が2本になる。ただし追加煙突は見せかけ。
真水タンク改造等船倉、外貌もかなり改造され、総トン数も5500トンに変更。 |
1944.11.1 |
「天応丸」が「天皇」と同音で「不敬」にあたるとの事で、「第二氷川丸」に改名
この後、航空燃料、液体アンモニア、塩素酸カリ、生ゴム、ダイヤモンド、銀塊、暗号書、兵員、武器弾薬等の違反物も積送。 |
1945.7.24 |
最後の航海を終え、舞鶴港に入港 |
1945.8.19 |
未明「第二氷川丸」舞鶴鎮守府防備隊により舞鶴港北方若狭湾沓島北東7400メートル地点で、爆雷により自爆沈没。
(当時の海軍大臣米内光政指令によると言われる)。 |
1978.10.30 |
戦後すぐにオランダ政府から、「オプテンノール号」返還、賠償要求が出されるが、この日1億円賠償で決着。 |