黄金 財宝を積んだ沈没船 第二氷川丸
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■CONTENTS■
舞鶴の伝説


■ 黄金(財宝)を積んだ沈没船 ■
■黄金(財宝)を積んだ沈没船

舞鶴湾から少し沖にある冠島。
その冠島の近くにある沓島の北東7400m地点の海底に黄金を積んだ沈没船が眠っているというお話。

その沈没船の中に積まれているとされる財宝は時価にして2兆円から3兆円。
何故、そんな財宝が積まれていたのかと言うと、日本が戦争に負けそうな状況を知った当時の海軍の幹部たちが、帝国海軍が再び復活しリベンジする為の軍資金を隠す為だったと言われています。

財宝の内容は東南アジア等から略奪した物で、金塊や銀塊、プラチナ、ダイアモンド、世界各国の金貨や銀貨等。

その沈没船の名前は「第二氷川丸」

この第二氷川丸は元々は日本の船ではなく、オランダの船でした。
オランダ・アムステルダム・ネーデルランド造船所で貨客船として建造、進水した当時の名前は「オプテン・ノール号」
オランダの王立郵船会社が所有し、豪華客船としてバタビア−シンガポール−バンコク−サイゴン−マニラ−モルッカ−バリ−バタビアに就航していました。
そしてオランダの海軍に徴用され、海軍施設で病院船として生まれ変わります。

その後、マカッサル海峡南方を航行中に日本軍の駆逐艦天津風(あまつかぜ)に拿捕され、日本の横浜港に連れて来られました。

条約では、病院船といえども戦争物資、兵員を積載しておれば拿捕できます。
しかし、その時の病院船のオプテン・ノール号には戦争物資、兵員等は積載してませんでした。
それは明らかに条約違反の拿捕でした。

日本海軍は、お構い無しに横浜の造船所で改造を施して「天応丸」と命名し、後に1本のエントツを2本に改造。
外観は随分と変わっていきましたが、追加した煙突は機能を持たない見せ掛けの煙突だったそうです。

また、天応丸という言葉の響きが天皇と同じ音だという理由から再び改名。
そうして第二氷川丸という名前になります。

以後、重油、航空燃料、液体アンモニア、塩素酸カリ、生ゴム、ダイヤモンド、銀塊、暗号書、兵員、武器弾薬等の病院船としての違反物も運び、最後の航海を終えて舞鶴港に入港します。

そして舞鶴鎮守府防備隊により、爆雷による自爆沈没させられて波乱の生涯を閉じます。

先に書きましたが、戦後のリベンジの為の資金を隠す為に沈められたという説と、誤って拿捕した為の国際法違反追求を恐れた日本政府が、証拠隠滅を図った為だとの説があります。



年月日 記  録
1927.2.12 オランダ・アムステルダム・ネーデルランド造船所で貨客船として建造
船名:オプテンノール号 6076トン
1927.11.9 オランダ王立郵船会社所有
バタビア−シンガポール−バンコク−サイゴン−マニラ−モルッカ−バリ−バタビア間に豪華客船として就航。
1941.12.8 オランダ海軍に徴用
1942.2.19 スラバヤ・オランダ海軍施設で、病院船に生まれ変わる
(同年2月4日オランダ赤十字社と駐日スェーデン公使通じ日本政府に病院船として通告される)
1942.2.26 日本海軍駆逐艦「天津風」に拿捕。

1907 年オランダ・ハーグで調印、1912年日本公布、「ジェネヴァ条約ノ原則ヲ海戦ニ応用スル条約」で臨検、捜索で戦争物資、兵員を積載していない限り拿捕できないが、オプテンノール号は、これらの物資、兵員を積載していなかった。
1942.12.5 日本へ回航され、横浜港に到着
1943.3.31 三菱重工横浜造船所で改造後、「天応丸」と改名
1944.10 横須賀海軍工廠で改造。
1本煙突が2本になる。ただし追加煙突は見せかけ。
真水タンク改造等船倉、外貌もかなり改造され、総トン数も5500トンに変更。
1944.11.1 「天応丸」が「天皇」と同音で「不敬」にあたるとの事で、「第二氷川丸」に改名
この後、航空燃料、液体アンモニア、塩素酸カリ、生ゴム、ダイヤモンド、銀塊、暗号書、兵員、武器弾薬等の違反物も積送。
1945.7.24 最後の航海を終え、舞鶴港に入港
1945.8.19 未明「第二氷川丸」舞鶴鎮守府防備隊により舞鶴港北方若狭湾沓島北東7400メートル地点で、爆雷により自爆沈没。
(当時の海軍大臣米内光政指令によると言われる)。
1978.10.30 戦後すぐにオランダ政府から、「オプテンノール号」返還、賠償要求が出されるが、この日1億円賠償で決着。

第二氷川丸 沈没場所


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